現代の片隅

写真で語る「イタコのいる日常」(3)イタコマチ

文:篠原 匡

イタコと言えば、下北半島の霊場恐山を思い浮かべる人が多いかもしれない。ただ、普段は里の自宅に住んでおり、恐山にはいない。恐山に通うのは、大勢の人が集まる夏と秋の大祭の時だけだ。最後の盲目イタコ、中村タケも15年ほど前まで恐山に通っていた。

 

(写真:Aya Watada、以下同)

 

青森県には、恐山のように、夏や秋の大祭の際に地元のイタコやカミサマ(ゴミソ)、祈祷師などが集まる「イタコマチ」がいくつも存在した。

 

川倉賽の河原地蔵尊(五所川原市金木)や赤倉神社(弘前市)、寺下観音(階上町)、虚空蔵菩薩堂(八戸市島守)、法運寺(おいらせ町)などである。法運寺では2009年頃まで、「百石いだこ祭り」が開催されていた。

 

 

 

その中でも、川倉賽の河原地蔵尊は、霊場としての雰囲気を今なお強く漂わせている。

 

川倉賽の河原地蔵尊は下北半島の恐山と同様に、この地域で亡くなった人間の魂が集まる山と信じられている。地蔵菩薩を祀った地蔵尊だが、どこの宗派にも属しておらず、地元の有志が管理している。佐井川智道住職は参拝者にお経を唱えるため、自坊から通う。

 

 

 

本堂には遺族が供養のために納めた大小2000体以上の化粧地蔵の他、ランドセルやギター、釣り竿など故人が生前に使っていたものが奉納されている。あの世でも、死者は現世と同じように暮らしていると地域の人々が考えてきた証左だ。

 

ここは水子や幼くして亡くなった子供を供養する霊場としても知られており、別棟には独身で亡くなった子供を供養するための夫婦人形が奉納されている。その数は800組を超える。あの世で我が子が結婚できるよう、人形のお婿さんやお嫁さんには仮の名前がつけられている。

 

 

資料が残っていないため開闢かいびゃくの時期は不明だが、長年、地域の死者を葬る場所として用いられていたようだ。江戸時代の飢饉の際には、本堂の横にある「いごく穴」という穴に死者を葬っていたという。江戸時代には、「霊場」として知られていたと考えられている。

 

 

 

恐山と同様のイタコマチで、夏の例大祭には津軽地方のイタコが集まり、口寄せをしていた。現在、口寄せに訪れるのは、尼僧で津軽地方の「カミサマ」として知られる木村妙海氏ただ一人となった。化粧地蔵や夫婦人形を新しく奉納する遺族も、今ではだいぶ減っている。

 

 

【告知】

蛙企画は、イタコという地域の生活に根ざした習俗を記録し、広く伝えるため、中村タケさんを軸にしたイタコ写真集を出版します。

写真集では、タケさんによる実際の口寄せの記録やインタビューに加えて、イタコの歴史やイタコを成立させている日本人の霊魂観、科学とスピリチュアリティの関係、イタコの役割の一つである「オシラサマアソバセ」、恐山や川倉賽の河原地蔵尊などイタコが集まる「イタコマチ」についても論じます。

イタコという存在をフックに、日本人が無意識に持っている宗教観や信仰を浮き彫りにしたいと考えています。出版費用を集めるためのクラウドファンディングを3月26日から実施していますので、ご協力いただければ幸いです。

失われていくイタコ文化を後世に遺したい!写真集製作プロジェクト」(https://readyfor.jp/projects/90007

 

また、日本独自のアートカルチャーを発信するギャラリースペース、True Romance Art Projects(東京・渋谷)において、国際的なフォトグラファー、和多田アヤ氏によるイタコ写真展「Talking to The Dead」を開催します。

4月3日には、「Talking To The Dead」にも寄稿いただいた宗教ジャーナリストの鵜飼秀徳氏と、今回のプロジェクトを担当している蛙企画の篠原匡のトークセッション(15〜16時予定、先着順)も予定しておりますので、ふるってご参加下さい。

 

◎写真展「Talking to The Dead」

会期:4月2日(土) ー 4月17日(日)

開廊時間:11-19時

会場:東京都渋谷区神南1丁目20 - 7 川原ビル 4F

連絡先:@true_romance_art_projects