現代の片隅

ある廃虚が語る飛田遊廓の追憶(3)

現代の片隅(10) (文:篠原匡 編集者・ジャーナリスト、写真:元𠮷烈)

「にいちゃん、いい子おるよ」という遣り手婆の呼び込みと、赤絨毯の上がりかまちに座った女性の嬌声が響く飛田新地の片隅に、往事の雰囲気を伝える元遊郭が奇跡的に遺されている。内部は老朽化が進んでおり、ところどころ床が腐っている。だが、一歩中に足を踏み入れれば、飛田遊廓と呼ばれた時代の記憶が色鮮やかによみがえる。(文:篠原匡)

飛田遊廓の前身となる遊廓はもともと今のなんばにあったが、明治45(1912)年に起きた「ミナミの大火」によって全焼し、今の飛田新地がある場所に移設された。その際に、デベロッパーが遊廓全体を計画的に開発したため、今の「鯛よし百番」に残る豪壮な木造建築が整然と並ぶ独特の景観を生み出すことになった。

2回目で述べたように、妓楼建築の特徴は伝統的な書院造を崩した数寄屋風などと称せられる。ただ、それ以外にも飛田遊廓には当時の遊廓に特有の建築上の特徴が見て取れる。中庭の存在だ。事実、戦前の飛田遊廓の空中写真を見ると、正方形の遊廓の中心に中庭があるのが確認できる(写真の中央部分。右側に向かってカーブしている線路の右上が飛田遊廓)。

(出典:国土地理院)

飛田新地が造成された大正時代半ばから昭和初期にかけて、公衆衛生上の脅威は肺結核だった。大勢の客で賑わう遊廓はクラスター化の恐れが常にあり、肺結核など感染症対策が最重視された。その対策の一つとして設けられたのが換気装置としての中庭である。

日中、日が昇り中庭が暖められると上昇気流が発生する。この上昇気流が中庭に面した座敷の空気を吸い込み、上空に逃がしたのだ。肺結核にかかった娼妓を中庭に面した3階の布団部屋に隔離したのも、そこが空気の出口だったからだ。

飛田遊廓が感染症対策に注力していた様は、飛田新地料理組合が本拠を置く飛田会館でも見て取れる。飛田会館の2階にある検査場には、室内を圧力調整に用いられたと思われるファンが遺されている。また、検査場の床は板が外せるようになっている場所がある。この下に医者が待機し、上を娼妓の女性が歩くことで梅毒の有無を検査していたという。

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