現代の片隅

ある廃虚が語る飛田遊廓の追憶(1)

現代の片隅(8) (文:篠原匡 編集者・ジャーナリスト、写真:元𠮷烈)

「にいちゃん、いい子おるよ」という遣り手婆の呼び込みと、赤絨毯の上がりかまちに座った女性の嬌声が響く飛田新地の片隅に、往事の雰囲気を伝える元遊郭が奇跡的に遺されている。内部は老朽化が進んでおり、ところどころ床が腐っている。だが、一歩中に足を踏み入れれば、飛田遊廓と呼ばれた時代の記憶が色鮮やかによみがえる。(文:篠原匡)

遠く欧州の地で勃発した第一次大戦の最中、1918年(大正7年)に大阪・天王寺の外れで、とある遊廓が誕生した。碁盤目上に整備された街区と豪壮な木造建築、そして一帯を取り囲んだ高い壁と出入り口に設けられた大門は、江戸時代に繁栄した吉原遊廓へのオマージュ。だが、西洋文化と日本文化が融合した大正初期の産物ゆえに、ビリヤードやダンスホールなど「モダン」と評された施設を備えた妓楼もあった。

その遊廓の名は、飛田遊廓である。

飛田遊廓は第二次大戦の際の大阪空襲で一部が消失した。戦後の高度経済成長に伴う開発もあり、遊廓時代の趣を遺す建物は今の「鯛よし百番」ぐらいしか遺っていない。だが、「にいちゃん、いい子おるよ」という遣り手婆の呼び込みと、赤絨毯の上がりかまちに座った女性の嬌声が響く飛田新地の片隅に、往事の雰囲気を伝える元遊郭が奇跡的に遺されている。「満すみ」だ。

この物件が建てられたのは、世界が大恐慌に向かうきっかけになった1929(昭和4)年のこと。売春防止法が完全施行された1958(昭和33)年以降は、飛田新地に特有の「料亭」として営業を続けた。その後、20年ほど前に料亭としての営業はやめ、以来、飛田新地の喧噪をよそにひっそりと佇んでいる。

長年、風雨にさらされたことで建物の老朽化は進んでいる。板張りの床はところどころ腐っており、天井が崩落している部屋もある。屋根瓦の一部も剥がれ落ちており、年々、凶暴化する台風によっていつ崩壊してもおかしくない状況だ。

実のところ、いつ、どのタイミングで満すみという屋号になったのかは分かっていない。もっとも、錆び付いたシャッターを開ければ、1958年の売春防止法の完全施行前、「飛田遊廓」と呼ばれた時の痕跡が至るところに遺されている。

これから廃墟と化した満すみを通して、昭和初期の妓楼建築の特徴や飛田遊廓の歴史、当時の習俗などを4回にわたってみていく。

シャッターを開け、湿り気と粘り気を含んだ廃虚特有の空気を吸い込む。すると、まず目に入るのは赤絨毯とその先にある表階段である。そのまま奥に分け入ると、階段の手すりには松竹梅の透かし彫り。時間がきたら鳴らしたのだろうか、番台には呼び鈴のようなものがある。

トタンなどで入り口が塞がれているため、今は表から入ることはできないが、満すみにはタイルやモルタルで塗り固められたダンスホールのようなスペースがある。塵や埃がたまっているが、床は目の細かなタイル張り。流し台のついたバーカウンターのようなものも置かれている。

満すみが建てられたのは、ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落した1929(昭和4)年のこと。この時代の遊廓は、芸者を呼び、茶屋で遊興した後に妓楼に上がるという伝統的なスタイルではなく、より短時間で安価な性サービスに移行しつつあった。いわば、「性サービスのコンビニエンス化」が進んだ時代だ。

この動きにあわせて妓楼建築も変化した。それまで遊廓といえば、江戸の吉原遊廓に代表される豪壮な木造建築だったが、大正時代に入ると、タイルや丸窓、ステンドグラスの採用など、西洋建築の要素を盛り込んだモダンな「カフェ」が人気を集めた。

満すみを見ても、ダンスホールの内装はタイル張りの床にモルタルで仕上げたと思われる塗り壁。日本文化が西洋文化と融合した大正ロマンの残り香が感じ取れる。ここで酒を飲みながら女性を待ち、あるいは女性と歓談し、その後、2階の座敷に上がったのだろう。

このスペースは今で言う「メイン通り」にの端にある角地である。紫煙がゆらめく電灯の明かりの下、ウイスキーや葡萄酒を飲む人々で賑わう様子は、通りを行き交う客の目にも映っていたに違いない。

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