無念を綴る

最期の夜

江角悠太 (志摩市民病院院長)

破綻寸前の市民病院から次々と医師が去っていった。最後に1人残った30代の医師。学生や住民を引き込みながら、医者の本質を彷徨さまよい求める。(文 金田 信一郎)

 

名古屋駅から電車とバスを乗り継ぐこと3時間、ようやく志摩半島の南にある鉄筋3階建ての建物にたどり着く。

志摩市民病院。

この病院は5年前、閉鎖の危機に立たされていた。かつて病棟90床、医師7人を誇った病院だが、膨れ続けた赤字が年4億円に達し、医師と看護師が逃げ出すように次々と去って行った。

人員が減少した分、規定によって病床を削減しなければならない。すると入院患者数が減って、さらに経営を圧迫する。負のスパイラルは住民にも知れ渡り、患者が寄り付かなくなった。

2015年暮れ、残った4人の医師のうち、院長と外科部長が同時に退職を申し出る。それから間もなく、副院長も病院を去って行った。

残った医師は1人だけ。

江角悠太。当時34歳で、病院に来て1年が過ぎたところだった。巨大な病院を維持するには、3カ月後に迫る年度末までに、医師3人体制にしなければならない。しかし、過疎地で赤字を垂れ流す病院に、誰が赴任してくるだろうか。

誰もが、病院閉鎖は避けられないと思った。

しかし今、その扉を開けると、思いがけない光景が展開されている。

 

学生の効用

 

朝のミーティングに8人が集まっていた。江角や研修中の医大生に混じって、奥のソファーに若い女の子たちが並んで座っている。研修で通ってきている地元の中学生3人と高校生1人だった。彼女たちは担当の患者を持っていて、その様子や対応を発表し、江角や医師たちと議論する。

ミーティングが終わると、この中高生を中心とした研修学生たちを引き連れて、江角が回診に出ていく。病棟の入院患者を回り、声をかける。

話をするのは江角が中心だが、一緒に回っている中高生の女の子たちが患者に会釈し、握手して回る。

「あの効果は計り知れない」

研修中の医大生は、そう言ってこんな逸話を教えてくれた。

ある入院患者がリハビリを断念し、体がほとんど動かなくなってしまった。いくら看護師が言っても、頑として拒否する。そこに江角と「学生回診団」がやってきて、次々と握手をしていった。その後、リハビリ室に通う患者の姿があった。

「学生には、医者や看護師を超えた力がある」

だから江角は学生たちに患者を割り当てる。一日中、患者に付き添い、どうしたら元気になるのか考え抜くように指示する。そして、想像を超える成果が生まれる。

78歳の末期癌の患者が入院してきた。腹部に水が溜まり、背中にも転移して食事が喉を通らない。家族は「手に負えない」と、病院での看取りを希望した。本人に確認すると、「それでいい」とうなずいた。

あと2、3日しかもたないだろう。そう思った江角は、女子学生に担当するよう命じた。

「彼を幸せにすることだけを考えなさい」

入院2日目のこと。彼女が江角のもとに飛んできた。

「死ぬ前にもう一度、家の風呂につかりたいと言っています」

即座に対応チームが結成され、どう入浴させるかプランを話し合った。そして、翌日、退院させた。

家族は当初、抵抗を示した。だが、江角は無理を承知で頭を下げた。

「お願いします。ちょっとつからせたら、すぐ病院に戻しますから」

半ば強引に家に戻し、浴室につけようと持ち上げた時だった。

「もう無理だ。苦しいからやめてくれ」

患者本人が音を上げ、願いは叶えられなかった。だが、周囲は変化に気づいていた。家に戻った瞬間から、表情が明るくなり、体調も上向いている。入浴は諦めたが、家族が食事を出すと、喉を通るようになっていた。最後はビールまで飲んで歓談した。その姿を見た家族は、ひそひそと話し合う。そして、江角にこう言った。

「このまま家で看取ろうかと思います」

想像しない展開に、江角も驚いた。

「じゃあ、僕たちも全面的に協力します」

それから亡くなるまで、自宅で2週間の時を過ごした。学生を含む医療チームと家族が連携して、毎日3食とって、花見までした。江角もその間に2回訪問し、一緒にビールを飲んだ。そして、周囲に見守られながら息を引き取った。

学生が実現させた「自宅での最期」だった。学生は四六時中しろくじちゅう、患者に寄り添うことができる。しかもコストがほとんどかからない。学生たちにとっても、かけがえのない経験になる。

そして、病院は少なからぬ衝撃を受ける。医師は自らの限界を感じることになる。日常業務に忙殺されていた看護師は、忘れかけていた初心を思い起こす。

それぞれが連携して、一人の患者を救う——。そこに、家族や周囲も巻き込んで。

だから、地域社会にも影響を及ぼす。家族が一緒に住み続けられるように考えていく。おのずと仕事や教育といった生活基盤の整備にも目が向いていく。

 

東京を救う

 

「病院の立て直しは、街づくりにつながる」

江角はそう言ってはばからない。

「志摩市民5万人を救う」とも言う。だから、絶対に患者を断らない。最大のターゲットは、高齢や重病、貧困に苦しむ最弱の5000人だという。

「最後の1人まで幸せにする。どんな患者でも受け入れて診断し、自分たちで処置できないと判断したら紹介状を書く」

学生は、そのためにも重要な役割を担っている。研修でやってくる年30人超の学生には、積極的に患者や地域と関わってもらう。地元の住民が患者としてやってくる以上、まず地域を知り、つながりを持つことが重要だからだ。

三重大学医学部5年生で研修中の西拓美は、「この病院での研修は、他とまったく違う」と言う。これまで経験した病院は、医師の後ろについて院内や診療を「見学」し、座学の講義を受ける。だが、ここでは医療チームの一員となる。

最初の2週間で、まず全部署を回って職場体験する。江角からは、「全職員と仲良くなれ」と指示が飛ぶ。その後、担当の患者を割り当てられて、こう告げられる。

「あとは、すべて自分で考えてやってください」

患者の希望や思いに対応するには、あらゆる人たちと連携する必要がある。だから、患者の家族や地域との関係を深めて、人脈を作っていく。そして、患者の要望を吸い上げ、その実現のために医師や看護師、薬局、給食、地域連携室などあらゆる部署と話し合っていく。

「何ができるか、考えて行動していると、すぐに1日が過ぎてしまう」

そう話す医大生の西は、消防署と連携して、救急車の出動にも同行している。自ら外に出て地域の問題を探り、解決法を考えていく。

江角は学生たちを地域と交流させるため、祭りや飲み会に参加させる。だからだろう。地域と深くつながったことで、研修後も志摩を訪れる学生が後をたたない。2年前、ある研修医は最後の挨拶でこう語った。

「私は志摩市民病院で実習したとは思っていません。志摩市で実習したと思っています。だから必ず、志摩のために恩返しができるよう修練して帰ってきます」

学生が志摩と深く繋がっていく——。その後、この地に戻って来る人も出てくる。そのことは、医療過疎を解消するばかりか、地域再生にもつながる。

それは、東京など大都市をも救うことになるという。

東京は20年後、高齢者数が2倍になる。だが、病院は減少していく。助けてくれる周囲の人もいない——。江角はそんな危機が迫っていると見る。救急車に乗ることもできず、受け入れてくれる病院もなくなる、と。

「東京の医療は崩壊し、老人が彷徨さまよう“被災地”になる」

江角はその時、志摩の医療モデルが「救世主」のように都市部にも広まると見ている。病院を中心に人が繋がる地域とでも言おうか。その実現に向けて、取り組みに磨きをかけていく。

 

医師と世界平和

 

1981年、東京・国分寺に生まれる。父は医学研究者で、母も医科系の博士号を持っていた。江角は父方の家系をさかのぼると9代目の医師となる。

だが、当初、医師になるつもりはなかった。両親ともに医学の道を邁進まいしんして、家庭をかえりみない。そのため、江角は7歳下の弟を保育園に迎えに行っていた。だからだろう、医師に対する嫌悪感すら抱いていた。

名門、都立西高校に入学するが、授業にはほとんど出なかった。麻雀やバイクに明け暮れた。修学旅行で旅館の絵画を麻雀台に使って、無期停学になったこともあった。

高3の春、高校に近い吉祥寺の井の頭公園で知人と遊ぶ約束をしていた。だが、早く着いてしまい、暇つぶしに映画館に入った。寝るつもりだったが、その前に映画が始まってしまう。それが、米国の実在する医師を描いた『パッチ・アダムス』だった。

精神科病棟に入院した主人公は、隔離施設で病状を悪化させる患者たちを目の当たりにする。だが、患者にとって、「笑い」が最良の治療法だと知る。そんな治療を医師となって実践するため、名門大学の医学部に入学するが、医学界の伝統の壁に突き当たり、理解を得られない。そこで、無料の診療院を開設して、「患者のための医療」を追い求めていく。

エンドロールが流れる中、江角は座席にもたれかかったまま、しばらく動けなかった。

医師とは「人のためになること」を貫く職業だったのか——。

映画館を出たものの、遊ぶ気になれない。約束を断り、家に戻って眠れぬ夜を過ごした。人のために生きる。それは、人と人との結びつきを強めることでもある。地域をつないでいけば、世界にもその影響力が広がるのではないか。現にパッチ・アダムスは映画を通して、そのメッセージを海外まで伝えている。

翌日、久しぶりに高校の門をくぐった。担任を見つけると、こう話した。

「医者になろうと思って」

担任はしばらく江角を見つめて、こう口を開いた。

「おまえ、正気か」

呆れた表情をしながらも、担任は江角のために補習プログラムを組んでいった。平均評定は2.7。補習は高校1年の授業内容までさかのぼらなければならない。2浪はしたものの、三重大学医学部に合格する。

あえて土地勘もない三重の大学を選んだのは、理由があった。父は、「医学部に行くなら国立大学に合格しろ」と厳命した。いくつかの志望校を2泊3日で見て回った。他の大学が古ぼけた巨塔に見えたのに対し、海岸線に隣接する三重大学のキャンパスはまぶしく思えた。しかも、多くの大学が医学部だけ別の場所に建てられているのに対し、三重大は全学部が一つのキャンパスに集まっている。

医療を中心に、人々をつなげていく——。

その構想を大学から実験するため、三重大に入学する。そして、他学部の学生も集めてスポーツなどの巨大イベントを打っていった。だが、単発イベントで人が集まっても関係は長続きしなかった。

何かが違う。

悩んだ末、大学の正門前にバーを運営することを決める。夜7時に開店し、翌朝5時まで営業する。安い価格にすれば、長く座り続け、延々と話をするのではないか。常連も一見客も、この場で遭遇し、つながっていく。

だから、店長の江角をはじめ、スタッフは無給とした。なぜなら、儲けることが目的ではないからだ。メニューもすべて250円で提供した。その後、店長のバトンは江角から三重大の学生たちに引き継がれ、15年たった今でも営業が続いている。

だが、当初は理解を得られなかった。オープンして間もない時、医学部長から呼び出しを食らう。

「おまえ、何を考えてるんだ。バーをやめるか、医者の道をあきらめるか、どっちか決めろ」

だが、江角は引き下がらない。何が問題なのか、理解できなかった。医学部長との議論は噛み合わないまま、時間だけが過ぎていった。見かねて教務委員長が割って入った。

「まあ、両方やってもいいんじゃないかな。ただ江角、おまえ留年だからな」

バーの仕事に明け暮れ、学業はおろそかになっていた。そこは認めるしかない。だが、江角にとっては、バーと医師を両立させることが重要で、留年はさして問題ではなかった。

そのバーは、予想以上の効果があった。集まったのは学生よりも、むしろ周辺の社会人や住民が多かった。三重の居酒屋は、深夜になればシャッターが閉まる。すると、朝まで営業している江角のバーに人々が流れてくる。職業も年齢も違う、本来ならば交錯しない人々が、夜な夜な店で出会って、明け方まで話し続ける。

「地域や人がつながっていく様がリアルに見えた。スタッフや組織を回すノウハウも含めて、貴重な経験になった」

 

治療不可

 

2009年に卒業すると、研修医として沖縄の中部徳洲会病院に勤務する。だが、すべての科を回っても、どこを専門にするか決めかねていた。ただ、「何でもできなければ、地域を救う医師にはなれない」ということは感じていた。

「専門が決められない」。そう恩師に悩みを打ち明けると、こう諭された。

「そんなことは、目の前の患者を助けていれば、自ずと見えてくる。それまでは、迷い続けていればいい」

ちょうどその頃、2カ月間、離島で研修する機会があった。島の病院を1人で回さなければならない。そこに、人工呼吸器をつけた70代の老女が、肺炎を患って入院してきた。チューブで栄養を補給している「植物人間」状態だった。もう長くはない。長男にこう宣告した。

「今晩、亡くなると思います」

うなずく長男に、こう確認した。

「心臓が止まったら看取みとりますか。まあ、延命の心臓マッサージもできますが、回復することはありません」

すると、予想外の答えが返ってきた。

「マッサージをお願いします」

江角は苛立いらだった。引き継いだカルテには、これまでも無理な蘇生措置を繰り返し、植物人間状態を何とか保っているだけだと記されている。だが、家族の意向だから従わざるを得ない。

「わかりました。もうすぐマッサージが始まるでしょうから、近くにいてください」

ところが、夕方に病室をのぞくと長男がいない。慌てて看護師に探しに行かせると、パチンコ店で発見された。

「ふざけるな。なんでパチンコなんかやっているんだ」

「実は、奄美大島にいる妹に会わせてやりたいんです。それまで、なんとか延命できればと思って」

怒りが収まらない江角は、その場で妹に電話をかけさせた。電話に出た妹は、明るい声で、「お兄ちゃん、今は無理。これからピアノの発表会があるの」と言う。

「ほら、妹さんは来る気がないでしょ。心臓マッサージ、しなくていいですね」

「いや、妹には早く来るように言うので、マッサージをやってください」

江角は呆れ果てた。

「血が出て骨が折れ、本人に負担がかかるだけです。やり続けるにも限界があるから、妹さんが来たら、やめますよ」

そう吐き捨てて、診察ベッドを後にした。

仮眠室で休んでいた午前6時、突然、叩き起こされる。夜行船で妹が到着したという。飛び起きて、診察ベッドに戻った。「まだ生きていたのか」。そして、妹が近づき、声を掛ける。

「お母さん」

その瞬間だった。老人の瞳から涙が溢れ落ちた。そして10秒後、心臓が止まった。

老人はこの瞬間を待っていたのか——。

打ちひしがれた。体は動かなくても、再び娘に会いたいという思いは消えていなかった。自分は患者のことをまったく見ていなかった。

それは、忌み嫌っていた「医者」の姿だった。研修で江角が見たのは、教授たちが回診で、終末期の患者をわざと飛ばしていた事実だった。「医者」は治療ができなくなった患者に興味を失う。そんな「医者」に自分がなっていた。

離島から戻ると、江角は終末緩和病棟に足繁く通った。治療不可の患者に向き合うために。だが、そこで、さらなる試練を受けることになる。

 

夢の果て

 

末期の卵巣癌にかかった50代の女性がいた。週2回、5リットルの腹水を抜く。江角がその治療をしていると、女性がこんな話を始めた。

「子離れしたら、父と海外旅行に行こうと話していたんですけど、病気になって、家族から止められるんです。向こうで死んだらどうするんだって」

うつむき治療する江角に、こう続けた。

「先生が付いてきてくれたら、行けるんだけどなあ」

その言葉に、江角は答えることが出来なかった。

2週間後、女性は世を去った。最後の願いを叶えられずに。

「世界で唯一、自分だけが彼女の思いを救える状態だった。それなのに、なぜ、『行ける』と言えなかったのか」

思い出すたびに、自責の念に駆られる。助けられるはずの人を助けられなかった。その時、指導医からこう声をかけられた。

「その悩みは、本来、すべての医者に必要なことだ。終末緩和を専門にしなくてもいいんじゃないか。どの専門医になったとしても、その気持ちを持ち続けていればいい」

せめてもの救いの言葉だった。だが、専門を決めることができないまま、時間が過ぎていく。

そんな状態を案じた三重大の恩師が、電話をかけてきた。

「まあ、悩んでいる暇があるなら、三重に飲みに来ないか」

研修地の沖縄から三重に飛んで、料亭の一室に入ると、恩師の他にもう一人、三重大医学部の教授が座っていた。

「おまえにはこの人しかいない。世界平和なんて言って理解してくれる教授は、この人だけだ」

そう紹介されたのが、総合診療科の竹村洋典だった。

江角にとって最適な専門だったのかもしれない。総合診療科の教科書を見ると、「目的は街を作ること」と書かれていた。地域に住んで、産業や教育など、すべてに関わりながら医療を進めていく、と。

2011年、三重大学医学部の総合診療科に入局して後期研修に入り、三重県内の3つの病院で勤務する。そこで、三重の医療の窮状を目の当たりにする。出動した救急車1万5000台のうち、5000台が緊急外来を断られ、360台は患者を県外に移送している。

それは人手不足による現場の混乱が原因だった。緊急の電話を、看護師が断ってしまう。そこで、医大生や看護学生をバイトで雇い入れて、体制を整えた。

後期研修を終えて、2014年12月、志摩市民病院に勤務する。志摩への赴任は、江角が希望したことだった。海に近く、自然豊かな地域だが、その魅力を発揮できないまま過疎化が進んでいる。人口は5万人近いが、毎年1000人ペースで減少が続く。

「志摩市民すべてを幸せにする」

そう理念を掲げて乗り込んだ。しかし、行動は空回りしていった。これまでの人脈を駆使して、著名人を呼んで講演会を開いた。しかし、住民はおろか、職員もまったく集まらない。そもそも、スタッフの減少もあって患者を断り続けたことで、地域の信頼を失っていた。だから、住民が寄り付かず、常に患者が少なかった。

2015年3月、看護師14人が一斉に退職してしまう。すると、入院病棟は基準を満たせず、閉鎖に追い込まれる。それによって、さらに収入と患者が減っていく。

理想とのあまりのギャップに苦しんだ。4月になると、江角は改革意欲を完全に失っていた。講演会などの活動も中止した。やることがなく、うなだれるように病院の廊下を歩いていた。

 

「この病院はいらない」

 

6月、事態は最悪の結末に向かっていった。ある日、院長がこう漏らした。

「もう経営が立ち行かない。君もそろそろ、別の病院を探した方がいい。ここはなくなるから」

病院がなくなる——。江角はその意味が理解できなかった。

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