「帝国主義的な影響を、他の影響力行使のパターンと区別する特徴としては、支配する側と支配される側、ふたつの社会の力の差異が明確なことで、支配する側が一方的に影響を及ぼせる関係に立つということである」(ルイーズ・ヤング『総動員帝国満洲と戦時帝国主義の文化』)
これを略奪行為と言わずして何と言うのだろうか。
日産自動車は中間決算で営業利益が前期比85%減と苦境に喘ぐ中、12月1日、新体制に移行する。
社長兼CEOだった西川廣人が辞任に追い込まれたのは、業績低迷が理由ではない。9月、西川が株価連動報酬(SAR)で、嵩上げされた不正な金額を受け取っていたことを認め、取締役会が辞任を迫る事態となった。SARの対象期間を株価が上昇していた期間にずらすことで、4700万円が上乗せされて支払われていた。
「(自分は担当に)一任していた」。西川は、期間をずらす指示はしていないと弁明したが、社外取締役を中心に批判が相次ぎ、辞任を余儀なくされた。
かつて西川は、元CEOカルロス・ゴーンの「右腕」として仕えてきたが、2018年11月19日の逮捕劇で掌を返している。その日の緊急会見で「複数の重大な不正」を指摘し、「権力が集中し過ぎた」とゴーン批判を展開した。そして、3日後にゴーンを会長職から解任し、代表権も剥奪した。
ゴーンが逮捕された容疑は、役員報酬約99億円のうち、有価証券報告書に約49億円しか記載せず、金融商品取引法に抵触するというものだった。その後、資金の不正流用など様々な疑惑が噴出したが、その1つに、西川と同じようにSARの不正で報酬を数億円ほど嵩上げしていたことも指摘されている。
だが、ゴーンは西川の不正を知ると、弁護士を通じてこう主張した。
「自分は(SAR不正で)金を受け取っていない。西川社長の方が悪質なのに、自分だけ逮捕されたのは極めて不公平だ」
世界一の代償
西川の不正報酬疑惑が月刊誌で報じられ、疑惑の目が向けられた中で、7月に第一四半期決算が発表される。
営業利益は前期比98.5%減の16億円。赤字転落寸前の危機的水準に陥っていた。そして、1万2500人を削減する巨大なリストラ策を打ち出す。
経営危機を現場のリストラで切り抜けようとする一方で、経営トップは不正に嵩上げした巨額報酬を懐に入れていく……。
西川の「現場軽視」は、社長兼CEOに就任した2017年、完成検査不正事件でも露見した。この事件は、完成車の検査資格を持たない社員が実際の検査を担当していたもので、印鑑を流用するなどの不正行為が日常的に行われていたという。しかも、正規の検査員においても、資格取得試験の際にカンニングが横行していた。人員不足が激しい追浜工場では、テスト中に試験官が解答を置いて立ち去り、その間に受験者が書き写した事実も明らかになった。
事件の背景には、小型車「ノート」の増産があった。事件の前年、追浜工場にノートの生産が移管されるなど、国内工場は急激な増産を指示され、2交代が3交代になるなど業務が膨れ上がっていた。
それは、仏ルノー、三菱自動車とアライアンスを組んで、2017年上期に世界一に上り詰めることになる、一連の拡大戦略の余波だった。
だが、実態を無視した業務増大に、現場は不正によって対応するしか手立てはなかった。38年前に工場の片隅で始まった無資格検査が、現場で一気に広まっていった。
だが、日産の各工場で繰り広げられた不正を、経営陣や工場幹部は「まったく気づかなかった」とする。ならば、日産は組織として有機的に機能していないことになる。断絶した部署を縦横に積み上げただけの巨大組織とでも言おうか。
会見で西川は、告発システムがあったことを強調した。
「通報制度を作っていたが、使ってくれなかった」
だが、従業員は「内部通報しても是正されないと思った」という。逆に、「犯人探し」をされることを恐れていた。
この完成検査不正事件の会見に、代表取締役会長だったゴーンは姿を見せなかった。事件の源流が、ゴーンの世界一を目指した拡大戦略であるにも関わらず。
それは、日産経営陣の「現場軽視」の系譜とも言える。
ゴーンは自伝『ルネッサンス』で、自動車業界のキャリアを仏タイヤメーカー、ミシュランの工場からスタートしたことを強調している。「工場で学んだ教訓」として1章を割いて回顧する。
教育係だった先輩従業員は、ワインやチーズ、タバコを持って出勤し、作業現場で平気でタバコを吸っていた。ゴーンは見張り役を命じられ、上司が来たら知らせる。だが、その上司もシフト8時間のうち、一度しか現れない。
この体験が、工場現場の原点としてゴーンの脳裏に焼き付いている。その章には、ある現場社員が数学を教えてほしいと申し出てくる場面が描かれている。
「この会社で出世したい、数学に長けていれば有利に違いない」
それを聞いたゴーンは承諾し、仕事の後、社員に数学を教えたという。その経験から、現場の従業員にも知識や教育を渇望している人がいることを知ったと記している。だから、マネジメントは現場の思いを汲み取って、機会を与えなければならない、と。
だが、ここにゴーンの「現場」観が色濃く映されている。「従業員は出世を目指すべきだ」と。技能習得や作業改善を目指すよりも、数字に強くなりマネジメントとして現場から抜け出す。
一方、トヨタ自動車はまったく違う「現場」観を持っている。
トヨタの生産現場を磨き上げた大野耐一は、今も読み継がれる名著、『トヨタ生産方式』を1978年に上梓している。サブタイトルは、「脱規模の経営をめざして」。
そして、こう警鐘を鳴らす。
「つくる量がふえるとそれに比例して自動車のコストは著しく低減していくというこの量産効果の原理は、高度成長期にいかんなく実証され、自動車産業の関係者の心に染みついてはなれない。しかし、低成長時代に入った現在、その量産効果のメリット、『多々ますます弁ず』の考え方を一刻も早く払拭しなければならない」
最新鋭設備をフル稼働させて、「効率」を求めることの危険性を、1970年代に見抜いていた。それは、大量の在庫を生み出す。しかも、部品にムダなものがあれば、それを使うために、完成車までがムダの集合体として積み上がっていくことになる。
トヨタの大野は、そこに問題を見出していた。
「後工程が前工程に、必要なものを、必要なとき、必要なだけ引き取りに行く」
有名な「かんばん方式」の一節は、そうした背景から生まれている。つまり、ニーズがあってから、生産を開始すべきだと説いている。
78年、大野がこの名著を世に出した頃から、創業時期が同年だったトヨタと日産という日本の自動車2強は、大きく組織の方向性が離れていく。
ニーズ(販売)によって生産が始まり、徹底的にムダを省いていくトヨタ。一方、日産は独裁者が君臨し、工場など組織の下層に数値目標を落としていく。
計画経済
歴史を遡れば、日産は創業から独裁者が君臨する企業体だった。創業者の鮎川義介は、新興財閥「日産コンツェルン」を率い、傘下に日本鉱業(現JXTGホールディングス)や日立製作所、国産工業(現日立金属)、日産自動車などを連ねた。
1936年、商工省の岸信介(後の首相)が満洲国高官として海を渡ると、翌年には旧知の鮎川も持株会社の日本産業(日産)を満州国に移転し、満州重工業開発(満業)と改称する。
そして、旧ソビエトの「計画経済」を範とした「傾斜生産方式」で、軍用の飛行機や自動車を大量生産していく。そのため日産は、満鉄傘下だった炭鉱や製鉄所の株式を取得してグループに収めていった。そして、素材の生産からすべて「計画」して、軍用物資の大量生産を続けた。
戦後、鮎川がA級戦犯容疑で巣鴨刑務所に投獄され、日産の経営はサラリーマン社長の時代に入る。そして、20世紀を代表する自動車産業が日本でも急成長する中、高学歴の社員を抱え込んでいった日産では、社内で苛烈な派閥争いが展開される。そして、トップの座についた者は反対派を追放し、独裁体制を築いていく。