無念を綴る

孤塁

河内ひとみ (公民館職員)

静かに斜陽の道を辿たどる瀬戸内の港町に、ち果てそうな公民館がたたずむ。職員は徐々に減っていき、最後に、たった1人の女性が残された。そして、公民館の本質を追いかける8年の物語が動き出す。(文・写真 金田 信一郎)

それは、想像を超える「古さ」だった。

瀬戸内海から潮風が吹き付け、その壁は黒ずみ、塗装がげ落ちている。築45年の館内に足を踏み入れると、設備の老朽化が目立つ。マイクはガムテープを巻いて修繕していた。建物の一部は崩落する危険があり、立ち入り禁止になっている。

玖波くば公民館。広島県大竹市にある市営施設は、山陽線の駅から歩いて数分の住宅街にたたずんでいる。今にもち果てそうに。

だが、入り口には「祝全国一」という垂れ幕が掛かる。

老朽化が進む施設が、なぜ、全国の公民館の頂点に立ったのか。その道筋を振り返ると、窮状を逆手に取り、公民館の本質に立ち返っていった歴史が浮かび上がってくる。

 

年間予算10万円

 

8年前、閉鎖という悪夢が現実になろうとしていた。

2011年、毎年のように減らされてきた職員が、ついに1人となった。残ったのは女性職員だけ。

河内ひとみ。

かつて大手企業に勤務していたが、公民館の魅力にかれて転職し、2005年に玖波公民館にやってきた。だが、数人いた先輩職員たちは、6年ですべて去ってしまった。

年間予算は10万円で「全国最低」と言われる。そして、閉館がささやかれた。事実、隣の公民館は3年前に閉鎖された。

窮地に立たされた河内だったが、ある思いがこみあげていた。

「どうせ1人なんだから、自分の思うように公民館を変えてみよう」

そして原点に立ち返る。

公民館とは何なのか——。

戦後、焦土と化した国土の復興を目指し、文部省が「公民館構想」を打ち出す。構想では、住民の交流や文化の継承、青年教育などを担うとうたわれた。だが今、そうした機能はほぼ喪失している。

「貸し館」。そう揶揄やゆされる。特徴のない施設は、高齢者が借りてカラオケをするのが代表的な利用になってしまった。その意義が問われ、ピーク時に全国2万5000あった公民館は、今では1万4000を下回っている。

当初の理念のように、地域の中心となって、文化や青年教育を担えるのか。

「いきなり理想には到達できない。まずは人を集めて、つながりから作っていく」

公民館にやってくるのは高齢女性ばかりだった。「古い」「ださい」というイメージが定着し、若者や男性の足が遠のいていた。

そこで、河内は1人になった2011年、毎月のイベントを「学びのカフェ」と名付けて、若い世代もきつけるテーマを模索していく。しかも、本質に迫る内容を目指した。

ちょうど3・11が起きた年だった。そこで、地震をテーマとしたイベントを開催する。地質や物理などの専門家を呼んで、活断層や原発について講義を聞き、地域の対策を話し合った。

あるイベントでは、地元のヨット選手で、世界一周を果たした人を招き、公民館の近くにある港にヨットを用意してもらった。集まった人々は、海岸線を散策しながら港に向かい、ヨットを体験してから選手の話を聞く。すると、大海原を横断する過酷な体験談が、聞く人の脳裏に映像のように浮かび上がる。

紅茶の講座では、知人にメイドの服装で給仕してもらった。参加者には、自宅にあるブランド物のティーカップを持ってきてもらう。そして、手に入れた経緯など、個人史を語り合う。住民が講座の主役になった瞬間だった。それをきっかけに、隣の人と会話が始まる。

「参加者が互いを知るようになり、『また会いたい』という思いが強くなっていった」

関係作りのための様々な仕掛けがある。毎月、イベントが開催されるが、年間予約は受け付けない。毎回、テーマごとに参加者を募集する。その予約も、自ら来館するか、電話をかけなければならない。常連でも、その都度つど、予約を取り直すことになる。しかも、名前と住所、電話番号を言ってもらう。

「もちろん、すでに常連の情報は持っている。それでも、話をすることでコミュニケーションが深まるし、何か異変があれば気づく」

 

逆境効果

 

老朽化した施設も、逆に「強み」として生かしていった。

フランス料理をテーマにした時のこと。一流ホテルのシェフを呼んでの食事イベントだったが、会場はわざと公民館の薄暗い入り口にした。

「ミスマッチによって、幻想的な雰囲気になった」。最高級の食事とサービスが提供されながら、参加費は3500円。

「公民館だから利益を出してはいけない。食材費しかもらわない」

講師に謝礼は払うが、そうした予算も年間10万円でやり繰りするしかない。だから、人脈と熱意で講師を引っ張ってくる。

カネもなければ、ヒトもいない……。だが、そんな窮状が、逆につながりを深める効果を発揮する。

イベントの途中で休憩時間になると、決まって河内が参加者にコーヒーをふるまう。当初、人数が5人程度だったころは、河内がコーヒーをれていた。だが、参加者が増えて、手が回らない。

ある時、いつものように河内がコーヒーを淹れようとすると、参加者が「河内さんは準備で忙しいから」と代わりにコーヒーを淹れ始めた。それに呼応するように、他の参加者がクッキーを焼いてきたり、自宅菜園で育てた果物を持ってくるようになった。

そしてイベントの参加者が増え始める。かつて、参加者は年220人ほどだったが、河内1人となった2011年、参加者は3倍の640人に急増している。そして、2013年には1879人に上った。毎回、200人近い人が、公民館の会議室に集まることになる。参加者の多くは女性だった。

そこで2013年、河内は次なる仕掛けを編み出した。

 

「地域ジン」

 

「住民のつながりはできてきた。そこに、地域課題を投げ入れていく。そうなると、男性を引っ張り込んで活躍してもらうしかない」

玖波地区には定年退職した男性が急増していたが、自宅にひきこもって、地域活動に出てこない。

「それぞれが技能や経験を持っている。彼らに出番を作っていく」

地域課題や「定年戦略」のテーマを掲げて、男性の参加を促していった。「家にこもるのか、町に出ていくのか」。河内は、地域にそうメッセージを投げかけた。

そして、公民館の一室が男性で埋まった。一旦、公民館とつながると、ほかのイベントにも参加するようになる。

そんなイベントで、河内はこう宣言した。

「みなさんは『地域ジン』です」

「何だ、それ?」

「この地域の課題を解決できる人のこと。つまり、あなたです」

「あ、オレが地域ジンなんだ」

館内に笑いがれた。それから、イベントの常連たちが「地域ジン」を名乗るようになり、名刺を作る人も出てきた。それは、自らの技能を地域のために注ぎ込むことを意味する。その「地域ジン」と刷られた名刺を持つ人が数十人に上る。

 

歴史の体感

 

男性が増えた効果は大きい。これまで経済の世界で活躍した人々を、公民館が取り込んだことを意味する。そして、イベントの影響力が次第に高まっていく。

2014年、参加者が2286人に上った年、地域を巻き込むプロジェクトが動き出す。きっかけは、ある地元の男性が、河内にこう申し出たことだった。

「街道沿いに空き家がある。好きに使っていい」

旧街道沿いにある古民家。しかも、玖波はかつて、宿場町として栄えていた時代がある。その歴史を現代に蘇らせて伝えることができないか。

そこで始まったのが、「まちカフェ」プロジェクトだった。河内は、民間がやるような古民家カフェでは意味がないと思っていた。玖波の歴史を体感できる仕掛けをいくつも織り込んでいく。蓄音機を置いて、古いラジオ放送を流す。そこで、旅人のように茶を飲み、地元の菓子を食べる。江戸から昭和にかけての地元の歴史を追体験するわけだ。

まちカフェの周辺にも、郷土の歴史を感じさせる施設を考えていった。かつて栄えた宿場だった名残なごりから、今でも街道沿いを中心に、家屋に「うだつ」が設置されている。それは家の格を示すとともに、装飾や防火といった機能を兼ねている。

「うだつストリート」。河内はそう名付けた。昔の写真を集めて地図を作成し、訪れた人にもアピールしていく。

「『何もない町』と言われていたが、よく見れば、誇りある歴史が残っていた」

まちカフェの完成が近づいた頃のこと。河内は、単にカフェをオープンするだけでは、効果は薄いと考えていた。そこで、昔の風景を体感するイベントを企画する。参加者はまず公民館に集まる。そこで昔の着物に着替えて、街道沿いをカフェまで歩いていく。途中に、かつての井戸などを復元して、歩きながら郷土の歴史を体験してもらう。そのため、参加者は時間差で公民館から出発した。

結果、住民300人が埋もれかけていた地域の歴史を振り返る機会を得た。その後、訪れる人に語り伝えていくことになる。

そして、このプロジェクトを通して、思いがけない「つながり」も始まっていた。

 

中学生を取り込む

 

河内は、毎日のように公民館にやってくる地元の中学生が気になっていた。その女生徒は、学校の宿題を終わらせて帰っていく。河内はさりげなく近づき、まちカフェのストーリーを話した。地元の歴史を語り、それを再現するイベントにしたい、と。黙って聞いていた女生徒が、最後にこうらした。

「それ、私たちも参加していいですか?」

女生徒は玖波中学校の生徒会副会長だった。そして、河内と生徒会との打ち合わせが始まる。放課後、公民館に中学生が次々と集まってくる。その数、30人。その状況を、河内はすべて中学校側に報告していった。そうして校長や教師との信頼関係を築いていく。

まちカフェのイベント当日、公民館は人々がごったがえす大盛況となった。着物姿の参加者が、かつての街道をまちカフェまで練り歩く。その途中、井戸の前では、昔の着物姿の中学生が参加者を迎えて、その歴史を語りかける。

中学生との交流は、このイベントを機に深まっていく。玖波中の文化祭のプログラムには、公民館主催のイベントが組み込まれている。中学校の体育館で地域ジンがフォークダンスを披露し、後半は生徒や校長を巻き込んで、一緒になって踊った。

逆に、公民館のイベントには玖波中が全面的に協力している。イベント開催日が近づくと、中学生が準備に協力するため、クラブ活動が休止される。

中学生から高齢者までが活動する拠点、玖波公民館——。それは、戦後に制定された公民館の高い理念を、現代に実現させたケースと言える。

当然の帰結として、その取り組みは、専門家をうならせることになる。

2015年、文部科学省は全国1万4000館の中から、77館を優良表彰し、中でも優秀な5館を東京・霞が関に集めた。そして、文科省でのプレゼンテーションが実施される。結果、最優秀賞に選ばれたのが、玖波公民館だった。

 

全住民にスポットライトを

 

まさかの日本一。それは地元に少なからぬ衝撃をもたらした。職員が1人になり、予算も低額だった公民館が、全国の頂点へと登りつめた。果たして、閉館していいものか。

有料記事(月500円で全記事閲読可)

会員登録・ログインして定期購読を開始する