再発の行方(8)

モルヒネ依存 (文:金田 信一郎)

手術が終わって病室のベットにいると、夕方、F先生が回診に来た。

「調子はどうですか?」

「はい。いいっす」

実際、手術後に体調がいいはずはない。傷口は、触れれば激痛が走る。

だが、ベッドで安静にしていれば、それほど痛みは感じない。

おそらく、麻酔が効いている。手術中の麻酔もまだ体内に残っているだろう。

また、背中から脊髄に向けて刺された針から、モルヒネが24時間継続で打たれている。自分で増量するためのスイッチもある。

予定通り、腫瘍とその周囲だけの手術で終わったことを知らされ、ほっと一息ついた。

だが、次のひと言で不安が広がる。

「で、レントゲンで見ると、どうも血流が良くないようです」

どういうことか分からない。

「傷口がくっつかないので、ふさがるまで時間がかかりそうです。水を飲み始めるのは2日ほど延期して、(手術から)1日目じゃなくて、3日目にしましょう」

「えっ」

私は表情にこそ出さなかったが、心の中でひどく動揺した。

「食事を再開するのはその後になります。まあ、それまで食欲もわかないでしょうし」

そう言うと、F先生は病室を後にした。

食事のことは特段、気にならない。それよりも、水を飲めるのが3日目ということに不安が募る。常用している睡眠剤が、その間は飲むことができない。

2年前に喉の内視鏡手術をした時、その晩に水の摂取ができなかったため、睡眠剤が飲めず、一睡もできなかった。そして、翌日に喉の手術痕が腫れ上がり、呼吸困難に陥った。気管切開の手術をすることが検討されたが、点滴に入れたステロイドが効いて、腫れが収まり事無ことなきをえた。その後は水が飲めたため、睡眠剤を服用して寝ることができた。そして体力が回復していった。

だが、今回は3日目まで水が飲めない。

その間に眠れなければ、体力が回復しない。つまりは傷口の修復も遅れることになるだろう。そうなると、水を飲める日がさらに先延ばしになる……。悪循環である。

言い知れぬ不安が襲ってきた。

前回よりも厳しい局面を迎えようとしている。

 

消灯の午後10時、点滴に睡眠導入剤を入れてもらう。

だが、予想していた通り、ほとんど効かない。2年前の夜と同じだ。

「眠れない」と焦るほど、神経が過敏になっていく。余計に眠れなくなる。

深夜、ナースコールを押して、看護師に睡眠剤を点滴に追加してもらう。

それでも眠りに落ちることができない。それどころか体調が悪化していく。

理由は睡眠剤だけではない。モルヒネも何度か手元のスイッチを押して増量している。

また、精神面で追い込まれていることも、体調不良につながっている。

このまま眠れずに朝を迎えれば、体力の低下で傷の修復は困難を極める……。

そのうちに、脊髄に流れるモルヒネも切れる。300㍉の点滴パックが設置されているが、すでに3分の1近く使っている。これが底をつきれば、激痛に見舞われることになる。

すべてが悪循環に陥る──。

 

深夜、夜勤の看護師が何度も点滴を確認しにやって来る。いったん部屋から離れても、何度も見回りに来る。眠れたのか、確認しているのだろう。

真っ暗な病室の仲、懐中電灯の光で足元を照らしながら看護師が入ってくる。そして点滴をチェックする。

私はその動きをぼんやりと眺めていた。

「やっぱり眠れないっす」

そう声をかけた。看護師は何ごともなかったように点滴をチェックしている。

「そりゃそうですよ」

看護師は点滴を見つめながら言った。

「こんな状態なんだから。そんなこと、分かりきってるじゃないですか」

こんな状態……。

ベッドに横たわっている自分を客観視した。その男は全身にチューブをつながれ、足はマッサージ器で固定されている。身動き一つとれない状態で、モルヒネや睡眠剤が次々と投与されている。

看護師が去った後も、暗闇に横たわっている自分を見ていた。

こんな状態……。分かりきっている……。

二つの言葉が頭を巡る。

こんな状態……。分かりきっている……。

そうだ。すでにこの手術と入院が決まった時から、こうなることは予期できていた。客観的に見れば、当然起きるべきことがただ起きているだけだ。

分かりきっていたことなのだ。

 

暗闇の中、点滴モーターの唸るような作動音が室内に響く。

諦めなければいけない──。

今日は眠ることはできないのだ。

朝を待つしかない。

今は何時なのだろうか?

無理に体勢を変えれば、時計を見ることはできる。

だが、見る気にもならない。

窓の外は暗い闇に覆われたままだ。

時間が経つのがこれほど遅いものなのか──いつまでも夜が続いていく。

 

 

ほんのり明かりが病室にさしてきた時、まだ薄い意識の中にいた。

事態は明らかに悪化している。

痛みが強まってくる。手術の麻酔は切れていくのだから当然だろう。モルヒネの投与量も、徐々に減少しているのかもしれない。手術後の痛みは(麻酔の効果を除けば)24時間後にピークを迎えるという。つまり、今日の昼ごろに、痛みがピークに達するわけだ。

手元のモルヒネを追加するスイッチを押す。だが、ほとんど効果がない。確実に痛みが強まってくる。

一睡もできなかった焦りがぶり返してくる。

激痛に悶えながら、言い知れぬ不安に襲われる。

もう一度、モルヒネのスイッチを押すか……。スイッチを握りしめる手がべったりと汗で濡れる。だが、どうしても押せない。これ以上モルヒネを投与すれば、体調がさらに悪化する。

 

病棟の廊下は、朝の喧噪がやってきている。

看護師が病室に入り、点滴をチェックしてからカーテンを開ける。朝の陽射しが部屋に差し込む。

おそらく看護師は、患者の気分を変えようとしてくれている。いや、そもそも朝にやるべき一行為にすぎない。

だが、陽が差し込むことで、こちらは現実を突きつけられる。点滴スタンドや机に積まれた医療の書類、無機質な病室がくっきりと目の前に広がる。

そして、激痛で顔が歪む。

痛みをこらえるため、天井の一点を見つめ、思考を止めようとする。だが、そんなことで激痛が収まるはずもない。固いベッドの上で体を折り曲げて堪える。

その時、これまで思っても見なかったことが頭をよぎった。

──ここから逃げ出したい。

そんな衝動に駆られた。

何もかも終えてしまいたい。

だが、現実には体中にチューブや点滴針がつながっている。足も固定され、身動きがとれない。

全てを引きちぎって、窓から飛び降りられないか──。

いや、それは不可能だ。

病室の窓は数センチしか開かない。廊下に飛び出しても、飛び降りる場所がない。そうだ、病棟はそういう構造になっている。おそらく、同じような衝動が、少なからぬ患者を襲っている。

患者はただ、激痛と不安に耐えるしかない。

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