手術が終わって病室のベットにいると、夕方、F先生が回診に来た。
「調子はどうですか?」
「はい。いいっす」
実際、手術後に体調がいいはずはない。傷口は、触れれば激痛が走る。
だが、ベッドで安静にしていれば、それほど痛みは感じない。
おそらく、麻酔が効いている。手術中の麻酔もまだ体内に残っているだろう。
また、背中から脊髄に向けて刺された針から、モルヒネが24時間継続で打たれている。自分で増量するためのスイッチもある。
予定通り、腫瘍とその周囲だけの手術で終わったことを知らされ、ほっと一息ついた。
だが、次のひと言で不安が広がる。
「で、レントゲンで見ると、どうも血流が良くないようです」
どういうことか分からない。
「傷口がくっつかないので、ふさがるまで時間がかかりそうです。水を飲み始めるのは2日ほど延期して、(手術から)1日目じゃなくて、3日目にしましょう」
「えっ」
私は表情にこそ出さなかったが、心の中でひどく動揺した。
「食事を再開するのはその後になります。まあ、それまで食欲もわかないでしょうし」
そう言うと、F先生は病室を後にした。
食事のことは特段、気にならない。それよりも、水を飲めるのが3日目ということに不安が募る。常用している睡眠剤が、その間は飲むことができない。
2年前に喉の内視鏡手術をした時、その晩に水の摂取ができなかったため、睡眠剤が飲めず、一睡もできなかった。そして、翌日に喉の手術痕が腫れ上がり、呼吸困難に陥った。気管切開の手術をすることが検討されたが、点滴に入れたステロイドが効いて、腫れが収まり事無きをえた。その後は水が飲めたため、睡眠剤を服用して寝ることができた。そして体力が回復していった。
だが、今回は3日目まで水が飲めない。
その間に眠れなければ、体力が回復しない。つまりは傷口の修復も遅れることになるだろう。そうなると、水を飲める日がさらに先延ばしになる……。悪循環である。
言い知れぬ不安が襲ってきた。
前回よりも厳しい局面を迎えようとしている。
消灯の午後10時、点滴に睡眠導入剤を入れてもらう。
だが、予想していた通り、ほとんど効かない。2年前の夜と同じだ。
「眠れない」と焦るほど、神経が過敏になっていく。余計に眠れなくなる。
深夜、ナースコールを押して、看護師に睡眠剤を点滴に追加してもらう。
それでも眠りに落ちることができない。それどころか体調が悪化していく。
理由は睡眠剤だけではない。モルヒネも何度か手元のスイッチを押して増量している。
また、精神面で追い込まれていることも、体調不良につながっている。
このまま眠れずに朝を迎えれば、体力の低下で傷の修復は困難を極める……。
そのうちに、脊髄に流れるモルヒネも切れる。300㍉の点滴パックが設置されているが、すでに3分の1近く使っている。これが底をつきれば、激痛に見舞われることになる。
すべてが悪循環に陥る──。
深夜、夜勤の看護師が何度も点滴を確認しにやって来る。いったん部屋から離れても、何度も見回りに来る。眠れたのか、確認しているのだろう。
真っ暗な病室の仲、懐中電灯の光で足元を照らしながら看護師が入ってくる。そして点滴をチェックする。
私はその動きをぼんやりと眺めていた。
「やっぱり眠れないっす」
そう声をかけた。看護師は何ごともなかったように点滴をチェックしている。
「そりゃそうですよ」
看護師は点滴を見つめながら言った。
「こんな状態なんだから。そんなこと、分かりきってるじゃないですか」
こんな状態……。
ベッドに横たわっている自分を客観視した。その男は全身にチューブをつながれ、足はマッサージ器で固定されている。身動き一つとれない状態で、モルヒネや睡眠剤が次々と投与されている。
看護師が去った後も、暗闇に横たわっている自分を見ていた。
こんな状態……。分かりきっている……。
二つの言葉が頭を巡る。
こんな状態……。分かりきっている……。
そうだ。すでにこの手術と入院が決まった時から、こうなることは予期できていた。客観的に見れば、当然起きるべきことがただ起きているだけだ。
分かりきっていたことなのだ。
暗闇の中、点滴モーターの唸るような作動音が室内に響く。
諦めなければいけない──。
今日は眠ることはできないのだ。
朝を待つしかない。
今は何時なのだろうか?
無理に体勢を変えれば、時計を見ることはできる。
だが、見る気にもならない。
窓の外は暗い闇に覆われたままだ。
時間が経つのがこれほど遅いものなのか──いつまでも夜が続いていく。
ほんのり明かりが病室にさしてきた時、まだ薄い意識の中にいた。
事態は明らかに悪化している。
痛みが強まってくる。手術の麻酔は切れていくのだから当然だろう。モルヒネの投与量も、徐々に減少しているのかもしれない。手術後の痛みは(麻酔の効果を除けば)24時間後にピークを迎えるという。つまり、今日の昼ごろに、痛みがピークに達するわけだ。
手元のモルヒネを追加するスイッチを押す。だが、ほとんど効果がない。確実に痛みが強まってくる。
一睡もできなかった焦りがぶり返してくる。
激痛に悶えながら、言い知れぬ不安に襲われる。
もう一度、モルヒネのスイッチを押すか……。スイッチを握りしめる手がべったりと汗で濡れる。だが、どうしても押せない。これ以上モルヒネを投与すれば、体調がさらに悪化する。
病棟の廊下は、朝の喧噪がやってきている。
看護師が病室に入り、点滴をチェックしてからカーテンを開ける。朝の陽射しが部屋に差し込む。
おそらく看護師は、患者の気分を変えようとしてくれている。いや、そもそも朝にやるべき一行為にすぎない。
だが、陽が差し込むことで、こちらは現実を突きつけられる。点滴スタンドや机に積まれた医療の書類、無機質な病室がくっきりと目の前に広がる。
そして、激痛で顔が歪む。
痛みをこらえるため、天井の一点を見つめ、思考を止めようとする。だが、そんなことで激痛が収まるはずもない。固いベッドの上で体を折り曲げて堪える。
その時、これまで思っても見なかったことが頭をよぎった。
──ここから逃げ出したい。
そんな衝動に駆られた。
何もかも終えてしまいたい。
だが、現実には体中にチューブや点滴針がつながっている。足も固定され、身動きがとれない。
全てを引きちぎって、窓から飛び降りられないか──。
いや、それは不可能だ。
病室の窓は数センチしか開かない。廊下に飛び出しても、飛び降りる場所がない。そうだ、病棟はそういう構造になっている。おそらく、同じような衝動が、少なからぬ患者を襲っている。
患者はただ、激痛と不安に耐えるしかない。