東京大学の大教室に、今年になって、見かけない「教師たち」が頻繁に教壇にあがるようになった。
「べてるの家」
北海道の南、浦河町で精神障害者たちが集まって、生活や仕事を続ける。その数、100人超。一緒に共同住宅に暮らす人もいれば、個人で住宅を借りる人もいる。そして、町に点在するべてる関連の職場やカフェに出向いて仕事をする。
精神障害を持っている人たちなので、突然、幻聴が起きて叫び出したり、鬱に落ちて起き上がれなくなる人もいる。そうすると、仲間がシフトを変えて、その日の作業を組み直して対応していく。
これまで、精神病患者はできるだけ外を出歩かないように隔離されてきた。症状が出れば、すぐに精神病棟の鉄格子の中に「入院」させる。
だが、浦河町では、当たり前のように精神障害者が町中で生活している。しかも、大企業でもできないような柔軟なシフト変更で、業務を続けながら——。
逆転の構図
何かが変わってきている。
官庁や大企業が次々と不正を繰り返す。強力だったはずの巨大組織が軋んでいる。そこに人材を送り込み、君臨してきた東大は、内部からその変調を感じているに違いない。医学部から教育学部まで、それぞれが教壇にべてるの家の関係者を招き、1日かけて彼らの言動から学ぼうとしている。
その日も、大教室の壇上に10人近くのべてる関係者が並んでいた。障害者は席を立ったり座ったりと落ち着かず、その2歳になる子供は、すり鉢状の大教室を、大声をあげながら走り回る。
誰も止められない。それもそのはずだ。教壇側に障害者がいて、東大は学ぶ立場なのだから。
倒錯したような構図。そして、浦河町で30年以上にわたって障害者を診てきた男が、高らかにこう宣言する。
「東大を救いにきました」
川村敏明、70歳。
彼は、健常者が作り上げてきた「強固な世界」に疑問を投げかける。それは、自らが属する医療界に対しても。
「医者は無力であることを認めなくてはならない」
医療の現場では、医師の言葉が絶対的な力を持つ。特に、精神病においては、その傾向が強い。多くの場合、荒れ狂う患者に困り果てた家族が、患者を連れてやってくる。だが、患者本人に発言の機会は与えられない。家族が病状を説明し、医師が病名を決めてしまう。そして大量の薬を処方し、注射を打ち、精神病棟に閉じ込める。
その瞬間、目の前から精神病患者が消える。家族は医師に頭を下げ、感謝の言葉を繰り返すことになる。
「だが、それは患者にとって、何の解決にもなっていない」
精神病患者を周囲や家族から切り離す「分別」にすぎないという。
ならば、どうすればいいのか。川村が行き着いた答えは、家族や周囲とのつながりを深めていくこと。これまで、日本で実施されてきた精神病医療の真逆とも言える。
金欠クイーン
この日、東大での講義は「家族」をテーマにしていた。浦河では精神病患者が普通に生活するため、カップルが次々と誕生し、子供も生まれてくる。現在は、第3次ベビーブームに沸いている。
東大の講演では、統合失調症ながら、2年前に男の子を産んだ大貫恵が教壇に並んでいた。大教室を走り回っているのは彼女の息子だ。
出産の逸話は壮絶だ。べてるで共同生活をしていたが、4年前、激しい幻聴が起きて、雨の浦河を裸足で駆け回った。そして、荷物をまとめて逃げるように町を出ていく。それきり、消息が不明だった。
2年前、その大貫から助けを求める電話がかかってくる。スタッフがクルマを飛ばしてアパートに駆けつけると、ガスが止められた寒い部屋で、布団にくるまっている姿があった。すでに、お腹はパンパンに膨らんでいた。だが、食料は米と味噌だけ。
川村は食料をクルマに積み込んで、40㎞離れた大貫のアパートに駆けつけた。「とにかく、赤ちゃんに栄養を与えたかった」。その時に渡した真っ赤な魚肉ソーセージが忘れられない。
「金欠クイーン」。浦河ではそう呼ばれていた。カネを手にすると、その瞬間に使い果たしてしまう。背後からは、「早く使え」という幻聴が聞こえるという。だから、いつも財布はすっからかんだった。
それは、育った家庭環境に影響を受けていた。小さい頃から、家族でカネを奪い合った。自分が先に使わなければ、次の瞬間には誰かが持ち去り、費消してしまう。いつしか、幻聴が聞こえるようになった。そして、カネを握りしめ、夜の街に飛び出していく。
その「症状」が、べてるで仲間と暮らすようになって、少し安定していた。ところが、浦河を飛び出して、知人がいない町で一人暮らしを続けたことで、病状が再び悪化してしまった。明らかに妊娠しているが、カネがなく、診察を受けていない。それでも、大貫は「産んで育てたい」という。あわてて産婦人科に連れていくと、すでに妊娠9カ月と診断された。あと1カ月もすれば産まれてしまう。
すぐに浦河に引っ越すことになる。2週間ほどで身支度を整え、浦河に戻った。その翌朝5時、新しい生命が産声を上げた。
「もう少し遅かったら手遅れ。ギリギリのタイミングだった」(川村)。そこから、べてるのスタッフやソーシャルワーカーが集まって、何度も応援ミーティングが開かれた。その中心には大貫がいる。
「大貫さんは、これからどうしていきたい?」
「とにかく、近くで暮らしたい」
実は、大貫にはすでに2子がいた。20年前、17歳の時に初産を経験し、3年後にも出産している。だが、重い統合失調症で入退院を繰り返しており、症状の悪化を避けるため十分な睡眠や休息が必要だった。そのため、自分で子育てをすることは困難で、遠方の施設にあずけてしまった。子供の運動会を観にいくこともなかった。
今度は、近くで子供の成長を見守りたい。だが、重度の精神病を抱え、自分で育てることは難しい。
ミーティングで、べてるのスタッフやソーシャルワーカーなど、周囲が支援しながら育てていくことを決める。そして、べてるの創設者、向谷地生良は、川村の方を振り向いて、こう言った。
「では、子供は川村先生の家で育てましょう」
何の打ち合わせもない。突然のことだが、川村は平然として答える。「わかりました」。これで6人目の子供を育てることになる。家に帰るなり、妻にこう報告した。
「なんか、今度の子はうちに来るらしいぞ」
弱さの情報公開
本人の意思を尊重し、周りがサポートに回る。そのサポート役には、同じ精神病患者の仲間も含まれている。
「日本の医療現場では、医師の指示に患者が黙って従う。そういう状況を根底から覆したい」
言葉を奪われた患者たちは、厳しい管理下に置かれ、危険と見なされれば精神病棟の鉄格子の中に押し込められた。だから、患者は「問題を起こしてはいけない」という意識が強く、かえって自分を追い込んでしまう。そして、溜め込んだシコリが、ある瞬間、爆発的な形で発病する。
だからだろう。べてるでは、患者の意思を尊重し、自由に行動させる。
「問題が起きなければダメだ」
つまり、日頃から症状が出ていれば、ガス抜きにもなり、周囲の人も対応や支援がしやすい。しかも、精神病患者が集まって、自分の症状や問題を打ち明けて、「対処法」をみんなで考えていく。
「弱さの情報公開」。べてるではそう表現し、「弱み」の共有を進めている。
東大での講演でも、大貫は「症状」が出ていた。席を立ったり座ったりと落ち着かない。講演終了後、上野のアメ横へと買い物に走る予定を立てている。そのことが気になって仕方がない。大学側がセットしてくれた歓迎会も断った。
軍資金は2万円。自分で持っているとすぐに消えるので、一緒に講演にやってきた診療所のスタッフに預けている。そのスタッフが苦笑する。
「いつ渡すか、タイミングが難しい」
だが、周囲が止めることはない。それどころか、スタッフはビデオカメラを抱えて一緒にアメ横に行き、横で撮影するという。
「おカネがなくなる瞬間の映像が撮りたい」。スタッフは映像を持ち帰って、浦河の仲間たちと鑑賞する。カネが瞬時にして消える様子に、みなが笑い転げるはずだ。そして、どう症状を防ぐか、具体的な意見が飛び交うことになる。
精神障害者とスタッフのやりとりに、大教室が何度も爆笑の渦に巻き込まれる。「精神病患者も笑うのか」。そう言って、東大教授たちは驚嘆する。
「東大の先生たちは、生きのいい精神病患者を見たことがない。彼らに話す機会を与えないから」
二重の不幸
それは、「象牙の塔」の現実でもある。
「東大は100年間、進歩しなかった」
川村はそう言って憚らない。そこには、100年前に東大医学部の教授が語った言葉がある。
「二重の不幸」
1918年、東京帝国大学医科大学教授の呉秀三は、日本の精神病患者の窮状を、そう表現した。1つは、精神病に罹った不幸。だが、患者は、もう1つの大きな不幸を背負いこまされる。それが、精神病に対する日本社会の根深い偏見だった。
明治時代、東大教授の呉が見たのは、集落から白眼視され、薬と注射漬けの中で牢獄に縛り付けられる患者の姿だった。家の中で監禁する「座敷牢」すら許されていた。今は座敷牢こそなくなったが、代わりに30万人もの患者が精神病棟に入院している。
「ガン患者は周囲から優しい言葉をかけられる。だが、精神病患者は厳しく責められ、壁の中に押し込められてしまう」。「二重の不幸」は、日本社会により強固に根付き、深刻度を増している。
「東大は100年間、進歩しなかった」。川村の言葉は、東大医学部を頂点とする日本の医療界への批判であり、閉塞感が強まっている日本社会への警鐘でもある。
だからだろう。川村は患者を前面に出して、彼らに耳を傾け、その言葉を世に送り出す。「医者の立場を下げる」とも表現する。その「患者中心」の医療現場に学ぼうと、精神病関連の学会が、浦河町で大会を開くことも少なくない。企業や海外からの視察も多く、年間2000人が小さな町にやってくる。
「すべては患者の力です。医者は何もやってません」
川村はそう言って笑う。その現場に、日本社会を変革するヒントが隠されている。
診察しない医者
浦河には、べてる関係だけでも100人を超える精神病患者が暮らしている。そして、鬱になったり、妄想や幻聴に悩まされると、川村の診療所に駆け込む。
だが、病状の悪化を訴える患者をよそに、川村は下を向いて、股の間で爪を切っている。
「もう、病気の話は聞き飽きた。なんか、楽しい話はないの?」
呆然とする患者に、こう続ける。
「ここは具合が悪いからって来る所じゃないから。そんなことをやっても、同じことの繰り返しになるだけだよ」
そう言われて、患者は診療室から追い出されていく。受付でサイフを開きながら、ブツブツと文句を言う。
「怒られた上に、カネも払うのか」
その言葉に、会計の女性も下を向いて笑いをこらえる。カネを払う患者も、深刻な表情で診療所にやってきた時と違って、自分の滑稽な姿に気持ちが和らいでいる。
そして、仲間たちにこう報告するに違いない。「今日、川村先生の所に行ったら、何も診てくれず、挙げ句は、こんなひどいこと言われたよ」と。だが、聞いた方も、「オレもこの前、何も診療してもらえなかった」と切り返す。そうした対話で、病状の最新情報が周囲に広まっていく。話しあい、解決策を考えながら支え合う。
隠していたはずの失敗談が、噂となって広まってしまうと気が滅入る。だが、自ら話すことで自尊心が保てる。しかも、笑いがとれれば、ちょっとした人気者にもなる。
それも、仰天の「症状」や「事件」であるほど、周囲は興味を抱き、「なぜそうなるのか」「どうやったら防げるのか」を考えたくなる。そうした病症を、患者やスタッフが集まって「研究」する。この「研究」という言葉も、前向きな取り組みへと転化させる力を秘めている。
ある精神病患者は、重度の幻聴に陥った。宇宙から声が聞こえ、「UFOに乗らないか」と誘われたという。待ち合わせ場所の襟裳岬に向かおうとしたその時、あるメンバーがこう引き止めた。
「おい、UFOの運転免許を持っているのか?」
それで、川村の元に免許取得の相談に行くように勧められ、診察室で我に返った。
こんな女性患者もいた。ある朝、向谷地に電話をかけて悲鳴をあげた。
「起きたら首が取れていた」
「で、今はどうしているの?」
「病院の救急外来に来ました」
「そうか。しかし、よくクビを忘れずに持っていったね。あれ、ところで今この電話はクビが話しているの?」
「いや、今くっつきました!」
自分で考え込み、病気を抱え込まない——。そうしているうちに、妄想や幻聴から逃れる術を徐々に身につけ、病状が安定していく。
そうした報告が来ると、川村は目を丸くして聞き入る。
「それはすごいなあ」
仲間と話し合い、解決を探っていく。それぞれの「弱さ」を知り尽くしているからできる「治療法」でもある。1つの成功事例が出てくれば、違う症状にも応用できるかもしれない。それが、患者同士による回復サイクルを加速させていく。
一人一起業
そんなべてるは、ビジネスにも乗り出している。
始まりは、地元産の昆布の袋詰め作業だった。今でも続く、べてるの主力ビジネスで、生産者や消費者との結びつきを強めて拡大している。
朝、べてるの作業場は混乱から始まる。決まった時刻になっても、人が集まらない。また、突然、叫びながら去っていく人もいる。すると、シフトを変えて、作業の担当や手順を変幻自在に動かしていく。それは、べてるにとって日常の作業風景となっている。誰がどのような「弱さ」を抱えているのか、理解し合っているから、とりたてて驚きもない。
「きちんと作業をこなすなんて期待したら、次の日から来なくなっちゃう」
川村は、そう言って笑った。作業場では、何もせずに、ただ傍観している人も多い。だが、咎める人はいない。
「見ている人がたくさんいるから、働く方もやりがいが出る」。そして、いざ、欠員が出ると、それまで遊んでいた人が、自ら作業に参加してくる。どこからともなくスーパーサブが登場するわけだ。
「弱いところはそのままにしておいた方がいい。深いつながりができる」
それを、べてるでは、「弱さの絆」という。
全体として機能する「場」を作っていく。そして、事業は黒字を維持している。
「一人一起業」。向谷地は、そう目標を掲げている。
誰でも、1つは得意技を持っている。それをビジネスにしていく。足りない所は、ほかのメンバーが補っていく。そうして物販や喫茶店、介護など様々なビジネスが立ち上がってきた。そして、人口減に悩む浦河の商店街で、閉店していた店舗を借りて、再びシャッターを開けていく。
東大などの一流大学から人材を集めて、赤字や不祥事に苦しむ大企業が後を絶たない。だが、企業が採用したくない精神障害者が集まって、黒字でビジネスを回している。
なぜなのか。川村は「質より量」だと言う。個の働きを見るのでなく、全体を見てほしい、とも。
「東大や大企業は、優れた人をかき集めているのに、集団としては全然ダメ。べてるはダメな人を集めて、集団としてすばらしい」
この「倒錯の構図」は、現代の日本社会を覆っている。
大企業や官庁は、とかく非効率な所、弱い部分を探して、切り落としてしまう。だから、自分の弱みを見せようとしない。切り捨てられる恐怖があるからだ。そして、周りばかり見て、人の粗を探して蹴落とし、自分が儲かることばかり考える。
だが、組織としては結束力がなく、個がバラバラで互いに対立している。儲け話では手を結んでも、自分に利がなくなったと見れば離れていく。
医者の世界も「切り落とし」が横行している。どんなに重度の精神病患者を前にしても、薬と注射で抑えつけ、鉄格子の病棟に閉じ込めてしまえば、解決したように見える。周囲はほっと胸を撫で下ろす。
「先生のおかげで治りました」
その言葉を、川村は「失敗の証」だと言う。医者がそれほど簡単に、短時間で精神病を完治できるはずがない。
だが、権威ある医者たちは、その感謝の言葉に胸を張る。単なる隔離と分別の作業をしただけなのに。
東大の教授や学生を前に、川村はこう言い放つ。
「頭がいいだけだと、それは障害です」
医師への憧憬と嫌悪
1949年、川村は函館に近い港町で生まれた。幼い頃、父は結核を患い、長期にわたって入院していた。その間、母は生計を立てるべく、港の仲買人として魚を買い付け、函館まで運んでいた。川村は小学生になると、漁港で母を手伝うようになる。魚が詰まった箱を荒縄で縛り、トラックに積み込む。
そんな少年時代、大人の世界に惹かれていった。漁師たちは、いつも腹の底から笑っていた。日常のあらゆる事象を笑いに変えるセンスとユーモアに溢れていた。その裏には、荒波の中での生死をかけた過酷な労働がある。船に乗る者同士、分かり合い、信じ合う関係でなければ漁は成立しない。
その影響からか、川村は北海道大学水産学部に入学する。だが、両親が喜んだのも束の間、3年の時に中退してしまう。
「より人間臭い仕事に就きたくなった」
人間そのものを相手にする医師を目指した。2年かけて勉強し直し、札幌医科大学に合格する。その後、留年したこともあって、卒業した時には31歳になっていた。
卒業を翌年に控えても、まだ専門が定まらなかった。実習で病院の各科を回ったが、自分が医師としてそこに立っている姿が想像できない。どの医師も威厳があり、輝いて見えた。
「居場所がない」。焦る川村は、ある日、思いがけない光景に出くわした。それが、精神科の病棟でのことだった。
がん患者が、放射線治療がつらく、心を病んで精神科にも通うようになっていた。患者はイスに座るなり、つらい日々を泣きながら語っていく。だが、医者は何をするでもなく聞いているだけ。そのうち患者は落ち着きを取り戻し、時折、笑顔を見せるようになった。そして10分ほどの時間が流れた。ついに、医者が口を開いた。
「はい、じゃあまた来週」
衝撃を受けた。これなら、自分も出来るのではないか。卒業を半年後に控え、精神科の道を選んだ。
1981年、川村は地方研修で浦河赤十字病院の精神科に赴任し、アルコール依存症の患者を担当した。そこで、精神科病棟の医療ソーシャルワーカーとして勤務していた向谷地と出会い、医者の無力を思い知らされた。向谷地は患者とともにべてるを創設し、彼らに寄り添って生活していた。
精神科にかかる患者は、医者の前で言葉をほとんど発しない。もし質問されても、本当の気持ちを話さない。なぜなら、ひどい幻聴や妄想をそのまま話してしまえば、「重症」と診断され、精神病棟に入れられて大量の注射や薬を投与されると分かっているからだ。精神科医への不信の構図が横たわる。
だが、ソーシャルワーカーである向谷地に対しては、患者たちは本音を次々と打ち明ける。
「パチンコに行けという幻聴さんが現れて、誘ってくるんです」
「へえ、今度、一緒に行きたいなあ」
幻聴や妄想をありのまま受け止め、興味を抱き、質問していく。幻聴や妄想も、生活に悪影響を及ぼさなければ、さして問題ない。だが、多くの場合、患者は自傷行為に走ったり、周囲に迷惑をかけることになる。どう幻聴や妄想をコントロールすれば、生活が安定していくのか、向谷地は患者と一緒に考えていく。
「医者は患者の生活全般を見ることができない。ワーカーの方が患者に向き合い、症状を緩和したり、生活を安定させることができる」
だが、浦河赤十字病院の精神科医は、向谷地を嫌い、遠ざけていた。川村は、それを「男の嫉妬」だという。医療現場において、医者が絶対権力者でなければならない。ほかの者がのさばる分野ではない、と。
「医者は何て弱くて、けち臭いのか」
そう嫌悪した川村だが、自身も医師として苦悩することになる。
失敗を研究する
浦河での2年の研修期間が過ぎたが、川村は大学に戻らず、札幌市内にある民間の札幌旭山病院のアルコール依存症専門病棟に勤務した。そして、壁に突き当たる。
「ぼくを『いい先生』と言った患者が、次々と亡くなっていった」
アルコール依存症の患者にとって、川村は強制的に「歯止め」をかけない、いい医者だったのかもしれない。だが、それでは患者の病状が悪化してしまう。
行き詰まりを感じていた時、米国のAA(アルコホーリクス・アノニマス)という自助グループの活動を知る。1930年代、米国でアルコール依存症だった2人の男性が、互いの問題を語り合ったことに始まる。気づくと、会う時には2人ともアルコールを飲んでいなかった。
川村はこれをヒントに、ミーティングを開いて、患者同士が恥ずかしい「酒の失敗談」を語り合うようにした。依存症にまで陥った人の失敗は、大抵は想像もつかない珍事で、笑いのネタとなる。自分から話す失敗談で「笑い」が取れると、それが救いに変わる。そして、断酒の様々な取り組みを知るきっかけになり、患者たちが「同志」としてつながっていく。
札幌旭山病院で3年目を迎えた頃、アルコール依存症の治療で、明らかな成果が出始めた。それを向谷地に伝えて、互いの状況を報告し合っていった。AAの方法論は、統合失調症など精神病全般の治療に有効なのではないか——。それは、次第に確信へと変わっていった。
「浦河に戻れば、すごいことが起きる」
母校の助教授に、浦河に戻りたいと伝えた。それから1年以上が経ち、念願が叶うことになる。
1988年、川村は再び浦河赤十字病院に勤務する。精神科の上司は、相変わらず向谷地の活動を快く思っていない。医師中心の治療を行い、患者が問題を起こさないように管理することを続けていた。だから、患者は本音を語ることができない。昨夜見た恐ろしい妄想や幻聴は、心の奥底に封印するしかない。それは、病魔を抱え込むことと同じなのに。
そこにAAの手法を持ち込む。患者たちが、思っていることを言葉にして表現する。どんな幻想や幻聴に悩み、失敗や事件を起こしたのか。できれば、「笑い」に変えて。
そして、失敗を繰り返さないように、対処法を話し合っていく。べてるで言う「研究」の対象となる。誰かが、重い症状で苦しんでいると、さりげなく、仲間からこんな言葉がかけられる。
「じゃあ、それを次の研究テーマにしよう」
病魔を抱え込まず、さらけ出して、みんなで対処法を模索していく。
「会社や組織もそうだけど、自分が応援されているという空気が感じられる場所でないと、やっていき辛いんじゃないかな」
つながりを感じる場所。そこに、救いを求めて、北海道の外れの町まで人々がやってくる。
言葉とつながり
べてるのスタッフとして勤務する秋山里子も、かつては重い精神病を患っていた。自分で付けた病名は「人間アレルギー症候群」。高校の頃から、友人の中にいながら、心は孤独に苛まれていた。周囲が楽しそうに話していても、自分がどう思われているのか、悩み抜いてしまう。
短大に入学したが、孤立して半年で退学。バイトに就いても、人と食事ができず、ひとり公園で弁当を食べていた。20歳の時、環境を変えようとニュージーランドに語学留学に出た。だが、自己否定が続き、「死」ばかり考えてしまう。電動ノコギリで腕を傷つけ、体に火をつけた。毎日、ナイフを抱いて寝ていた。
異変に気付いた母が、ニュージーランドに飛んでくる。そこで、渡された精神科医の連絡先に電話をかけた。それが川村だった。
「リストカットが止まらない」
悲痛な思いで訴える。すると、受話器の向こうで川村の笑い声が響いた。
「浦河には同じ人がたくさんいるよ。カットクラブもあるんだ」
自分だけじゃない——。何かがつながり、心の拠り所が見つかりそうな気がした。帰国後、秋山は日高本線に揺られて浦河に向かった。同じように自傷行為に走る仲間と、互いの症状について語り合う。言葉のシャワーを浴びるような生活が続いた。
それから4年後、秋山はべてるのメンバー(患者)から、支援するスタッフへと立場を変えた。
業績なき受賞
全国から重い精神障害者が、すがるように浦河にやってくる。だが、川村が病状の話を聞くのは、初診の時ぐらいだ。何度も診察に通い、同じような症状を訴えると、川村は不機嫌になる。だが、自分たちが編み出した解決策を話すと、「すげえな」と目を丸くする。とりたてて治療を行うわけでもないのに、患者は意気軒昂に帰っていく。
「医者が頼りにならないことを、だんだん分かってきていると思う」
浦河で始まった「解放治療」の噂は、医療界にさざ波のように広まった。ある時、母校の教授から電話がかかってきた。
「お前ら、とんでもないことをやっているらしいじゃないか」
医療の世界では、新しい取り組みは、母校に報告するのがしきたりである。罵声を浴びると覚悟していると、受話器の向こうから、こんな言葉が出てきた。
「何も分からずにやっているかもしれないが」。そう前置きして、教授はこう続けた。
「お前らがやっていることは、とんでもなくすばらしい」
そして、精神病学会の賞を受ける。その際に、こんな要請があった。
「なんか業績を出してくれ」
通常は、論文がなければ学会の賞を受けることはできない。だが、川村は論文を書かない。
「いやあ、そういうものは何もありません」
そう言って、昆布のカタログを送った。
「医者の地位を下げる」
精神病治療で世界から注目を集め、視察する人の数も増えていった。そんな2014年、浦河に衝撃が走る。
浦河赤十字病院が精神科を廃止する——。川村や病院スタッフ、そして何より精神病患者たちが行き場を失う。だが、川村はさして動揺することもなかった。自分の医療方針から入院患者が少なく、病棟はいつもガラガラだった。経営的には厳しい状態が続いていたと見られる。
「私がいる間、病院はずっと赤字だったと思う。でも、院長がえらかったのは、私に『数字を上げろ』と一度も言わなかった」
そして、川村は自らの診療所を立ち上げる。精神科が廃止されると、日赤病院から歩いて数分の場所に、「浦河ひがし町診療所」がオープンした。高齢者のためのデイケアを設置し、その奥に川村の診察室がある。
この施設で、川村は「理想の医療」を具現化しようとしている。
「医者の地位を下げる」。多くの病院では、看護師や事務スタッフは医者の顔色を気にして、指示を待っている。だが、それぞれの役割こそ違っても、上下関係はないという。だから、基本的には川村の許可を取る必要はない。命令もなければ、制服もない。事務の女性は私服で受付に座っていた。
「重要なことは言ってくれるけど、あとは任せてくれる。大事にされている感じが伝わってくる」
木目がむきだしの温かみのある建物に陽が差し込み、奥の部屋から川村やスタッフたちが談笑する声が漏れてくる。
「ここに来たら、働きたくなる」
川村がそう自慢するように、当初6人だったスタッフは、40人近くに増えていた。そして、デイケアに集まっている老人たちに混じって、大貫の2歳の息子が走り回っている。ほかのメンバーやスタッフにも、相次いで子供が産まれている。そして、高齢者に役割ができた。子供と一緒に食事をする人、散歩をする人…。
「みんなで子育てをしている。子供が一番大事だからね。年寄りは子供のために使え、と言っている」
思い出
一方で、べてるメンバーの高齢化も進んでいる。活動開始から40年が経ち、60代や70代のメンバーが増えている。亡くなっていく人も少なくない。
葬儀の当日、川村は主治医として弔辞を語る。
忘れられない葬儀が営まれたのは3年前のことだった。30年近くべてるで暮らした73歳の石井健が亡くなった。だが、葬式を前に川村は弔辞の言葉が思いつかない。重い精神病の発作を繰り返し、言うことも聞かず、周りに迷惑ばかりかけていた。川村は何一つ、いい話が思い出せない。
その時、川村の息子がポツリと呟いた。
「おれ、石井さんの思い出があるよ」
息子が小学生の時のこと。校庭に石井が侵入する「事件」が起きた。生徒たちはその姿を見て、窓に群がった。絵に描いたような不審者が現れたことで、教師たちに戦慄が走った。
川村の息子は、石井のことを知っていた。声を掛けに行こうか。だが、不審者の知り合いだと揶揄われるかもしれない。そうして時間が経っていく。教師たちはどう行動すべきか分からない。ついに決心した。
「知っている人なので、話してきていいですか」
そう教師に言って、石井に近づき、声を掛ける。
「石井さん、勉強しているところだから、校舎に入ってきちゃダメだよ」
すると、いつもは人の言うことなど聞かない石井が、無言のまま校庭を後にした。息子と石井の間で、何かが通じた瞬間だった。その話に、川村は涙した。弔辞の言葉は決まった。
「石井さん、あなたは何一つ、いいことをしないで73年の人生を終えました。主治医としては何も言うことがありません。ただ、川村家の親として思う所があります。息子に勇気を振るうことの大切さを教えてくれました。親として、深く感謝しています」
葬儀は、廊下まで人が溢れた。べてるの葬儀に初めて参加した牧師は、涙と笑いが交錯する葬儀の空気に圧倒された。
「浦河の葬儀は、いつもこんな雰囲気なのか」
永遠の丘
べてるのメンバーには語るべき言葉と、心に刺さるストーリーがある。それは、生きることに不器用な人々が、悩み苦しみながら、つながり、支え合うことで生を全うしようとする物語でもある。
「本来、生きるということは複雑さを抱えている。だから、それを失わないようにする。単純化はしない」
べてるが運営する「カフェぶらぶら」。店の壁にメンバーの写真が掲げられ、彼らの言葉が記されている。
「死んじまえ!」は
「あなたを信じています。」
っていうことなんですよね。
褒めてくれる人がいるから安心して病気ができるんだ。
自分が小さくなって人生を生きてきた。
周りの人が僕に上から目線じゃなくて
僕が下から見上げてたことに
ある日気が付きました。
複雑さと繊細さ。詩的、かつ哲学的。生の本質を求め続けた末の、「言葉の力」を感じる。
だが、物語を抱えたまま、一人、また一人と世を去っていく。
べてるは今、メモリアルパークという名の墓苑を作る計画を進めている。川村は、その地を案内してくれた。太平洋を一望できる1万3000坪の広大な丘が広がっていた。ここに亡き人たちの記念碑を建て、彼らの言葉を刻み遺していく。
生に悩み、この地に辿り着き、仲間たちともがきながら命を全うした人たち。彼らが安らかに眠る丘では、いつでもまた会うことができる。海を見下ろし、悠久の風に吹かれながら丘を散策する。懐かしい名の刻まれた碑に佇めば、言葉と思い出が蘇ってくる。彼らの声が風に乗って流れる。
「死んでなお、ここまで言葉とストーリーが語り継がれる健常者がいますか」
川村はそう言って遠くを見つめる。そして、こう思う。
100年前、東大の教授は、日本の精神病患者を「二重の不幸」と表現した。だが、ここ浦河では、逆の答えを導こうとしている。
この病に生まれた幸せ。そして、この地で暮らした幸せ。
「二重の幸せ」ではないか。
100年前の東大教授に、この丘を見せたい。
「先生、あの問いに対する答え、こんな感じでいかがでしょうか」